コンサートでもない、映画でもない、SFでなくもない 「HTML劇場」──

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第十章 偉大なるカント


純粋理性批判(上) カント

ヴェルラムのベーコン

大革新 助言

 我々は自分みずからについては語らぬ。しかしこ
こで論じられる事柄については、諸人がこれを単な
る意見としてではなく、一つの重要な仕事と解し、
また我々の意図するところは、一学派の創設や任意
な学説の確立ではなくて、実に人類の広大な福祉の
建設にあるということを信じて頂きたい。また諸人
が各自の利益を思念し、……一般の福利を考慮し、
……この仕事に親しく参与して頂きたく思う。更に
また諸人は安んじて、我々の革新を何か無際限な、
また超人間的な事柄と見なさざらんことを切に望み
たい。この革新こそ、実に限りなき謬見の終りにし
てかつその正当な限界だからである。(扉)


第一版序文(一七八一年)

 人間の理性は、或る種の認識について特殊の運命を担っている、即ち理性が斥けることもできず、さりとてまた答えることもできないような問題に悩まされるという運命である。斥けることができないというのは、これらの問題が理性の自然的本性によって理性に課せされているからである、また答えることができないというのは、かかる問題が人間理性の一切の能力を越えているからである。(p.13)

 そこで私は、これまで手をつけられずにいた批判というこの唯一の道をとり、従来理性がその超経験的使用のために自分自身といわば不和を醸す原因となっていたところの一切の謬見を除去する手立てが、この道によって発見せられたことを、心ひそかに喜んでいる次第である。(p.17)


第二版序文(一七八七)

 次に自然科学について言えば、この学が坦々たる学問の大道を発見するまでは、その進歩は数学に比して遙かに遅々たるものであった。聡明なヴェルラムのベーコンの提案は、一方ではこの発見のきっかけとなり、また他方ではかかる発見にいたる方向が当時すでに辿られていたところから、この発見にますます拍車をかけるようになったのは、つい一世紀半ばかり前のことだからである。しかし自然科学における発見も、数学の場合と同じように、考方の急速な革新によってのみ説明することができるのである。なお私はここで、経験的原理を基礎とする自然科学だけを考察の対象にする積りである。(p.29)

 自然科学者たちの心に一条の光が閃めいたのは、ガリレイが一定の重さの球を斜面上で落下させた時であった、またトリチェルリの場合には、彼が一つの水柱の重さを前もって計っておき、この重さに相当すると思われる重さを空気で支えてみた時である、更に降ってはシュタールが、金属と焼灰とからそれぞれ或るものを除いたり、或はこれに或るものを加えたりして、 金属を焼灰に変じまた逆にその焼灰を金属に変じた時であった。(p.29)

つまり我々が認識し得るのは、物自体としての対象ではなくて、感性的直観の対象としての物──換言すれば、現象としての物だけである。するとこのことから、およそ理性の可能的な思弁的認識は、すべて経験の対象のみに限られるという結論が当然生じてくる。ところで──これは十分注意されねばならぬことであるが、──我々はこの同じ対象を、たとえ物自体として認識することはできないにせよ、しかし少くともこれを物自体として考えることができねばならないという考えは、依然として留保されている。さもないと現象として現われる当のもの〔物自体〕が存在しないのに、現象が存在するという不合理な命題が生じてくるからである。(p.40)

 (一) ア・プリオリ(a priori)。『先天的』とも訳される。
 (二) ア・ポステリオリ(a posteriori)。『後天的』という訳もある。


先験的原理論

第一部門 先験的感性論

緒 言

 それだから私は先験的感性論で、悟性が概念によって思惟する一切のものを分離して経験的直感だけを残し、こうしてまず感性を孤立させよう、次にこの経験的直観から、感覚に属する一切のものを分離して純粋直観、即ち現象の単なる形式だけを残すようにする。こうして最後に残されたものこそ、感性がア・プリオリに与え得る唯一のものである。このように究明していくと、感性の二つの純粋形式であるところの空間(Raum)と時間(Zeit)とが、ア・プリオリな認識の原理であることが判る。そこで我々はこれから、この時間および空間を考察しようと思うのである。(p.88)

第一節 空間について

空間概念の形而上学的解明

(二) 空間は、ア・プリオリな必然的表象であって、この表象は一切の外的直観の根底に存する。空間のなかに対象がまったく存在しないと考えるのは、かくべつむつかしいことではない、しかし空間そのものがまったく存在しないと考えることは、絶対に不可能である。それだから空間は、現象に依存する規定ではなくて、現象そのものを可能ならしめる条件であり、外的現象の根底に必然的に存するア・プリオリな表象なのである。(p.90)

空間概念の先験的解明

(b) 空間は、外感によって表象せられる一切の現象の形式にほかならない、換言すれば、空間は感性の主観的条件であり、この条件のもとにおいてのみ外的直観が我々に可能なのである。(p.94)

第二節 時間について

これらの概念から生じた結論

(a)時間は、それだけで存立する何か或るものではない、また客観的規定として物に付属しているような何か或るものではない、従ってまた物の直観を成立せしめる主観的条件をすべて除き去っても、なおあとに残るような何か或るものでもない。(p.100)

(b)時間は内感の形式──換言すれば、我々自身と我々の内的状態との直観形式にほかならない。時間は、外的現象の規定ではあり得ないからである。(p.100)

(c)時間は、一切の現象一般のア・プリオリな形式的条件である。一切の外的直観の純粋形式であるところの空間は、ア・プリオリな条件として、外的現象にのみ限定される。これに反して一切の表象は──外的な物を対象とするにせよまたそうでないにせよ、──それ自体、心意識の規定として内的状態に属する、ところがこの内的状態は、内的直観の形式的条件に従い、それだからまた時間に従っている。このようなわけで時間は、一切の現象一般のア・プリオリな条件である、しかも内的(我々の心の)現象の直接の条件であり、またこれによって間接的に外的現象の条件でもある。(p.101)

 しかしかかる現象の根底にあると思われるところの物自体については何ごとも言い得ない、ということである。(p.115)

先験的感性論の結語

 我々は、先験的哲学の一般的課題『ア・プリオリな綜合的命題はどうして可能であるか』を解決するための要件の一つを、この先験的感性論で示した、それはア・プリオリな純粋直観であるところの空間および時間である。(p.120)

純粋理性の一般的課題

 それだから理性批判は、けっきょく学にならざるをえない。
 ところでこの理性批判という学は、甚だしく広範多岐に亙ってそのために人を避易させるようなものではない。この学が取扱うところのものは、理性の多種多様な対象ではなくて、まったく理性自身だからである。


 篠田秀雄訳
 1976年12月10日 第17刷発行
 岩波書店