コンサートでもない、映画でもない、SFでなくもない 「HTML劇場」──

情報風景インスティテュート株式会社

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第十一章 ショーペンハウアー "徹頭徹尾"


意志と表象としての世界 第一版への序文(一八一八年)

 この本はどんな読み方をしたらできるだけ理解してもらえることになるのか、まえおきとしてここで申し述べておくことにする。──この本によって伝えられるのはたった一つの思想である。それにもかかわらず、いくら苦労しても、それを伝えるのにこの本の全体より短い道は見つけられなかった。(p.13)

 こうした事情であるから、ここに述べた思想をつきとめるには、この本を二回読むよりほかには手だてがない。これはおのずから明らかである。しかも一回目は大いに忍耐を要するが、この忍耐たるや、終わりが始めを前提するのとほとんど同じくらい、始めは終わりを前提とし、同様にまた、あとにくる部分がさきの部分を前提するのとほとんど同じだけ、さきの部分はいずれもあとの部分を前提する、という事の次第をすすんで納得してかからないことには、とても得られるものではない。(p.14)

 読者になすべき第三の要求は、けっきょく暗黙の前提とさえされてよいものである。それはほかでもなく、二千年このかた哲学において出現した最も重要な出版物、しかもわれわれにきわめて身近な出版物を熟知していることの要求であるからである。つまりカントのいくつかの主著のことである。(p.17)

 それゆえカントの哲学は、本書でこれから述べるはずのことに関して、その徹底的な熟知が直接に前提されるただ一つの哲学である。(p.18)


第二版への序文(一八四十四年)

 いまやこの第二版についていえば、二十五年たったあとでもなんら撤回すべきものを見いださないこと、したがってわたしの根本確信の正しさが少なくともわたし自身において明らかになったことがなによりもうれしい。(p.29)

 すでに第一版への序文のなかで、わたしの哲学がカントの哲学から出発し、したがってそれに関する徹底的な知識を前提することを説明したが、ここでもそれを繰り返す。なぜならカントの学説は、それを理解したいかなる頭脳のなかにも、精神的な再生とみなされうるほど大きい根本的な変化をひき起こすからである。(p.32)

したがってこうした連中がカントの哲学に通じた者に対する関係は、未成年者の成人に対する関係と同じである。この真理はこんにち逆説的にきこえるが、理性批判が出版されたあと最初の三十年間には、そんなことはけっしてなかったことであった。そのわけは、それいらいカントをほんとうには知っていない輩が成長してきたからである。それというのも、カントをほんとうに知るためには、粗略で性急な読み方や他人の手を経た報告より以上のものが必要であるからである。(p.32)

こういう次第であるから、カントの学説をカント自身の著作とはどこか別のところに求めても無駄であろう。(p.34)


第三版への序文(一八五九年)

 真実で純粋なものは、これを産みだす能力のない連中がともに結束して台頭をはばむといったことがないなら、もっとたやすく世の中にいれられることであろう。世の中のためになるはずのものが、息の根をとめられるまでではなかったにせよ、これまで阻止され遅滞させられることの多かったのも、このせいである。わたしの場合もそのおかげであった。この作品の第一版の公刊はわたしが三十の年を数えたばかりであったにもかかわらず、七十二歳まで生きながらえてはじめてこの第三版にめぐり会うのである。しかしこの点についてはペトラルカの言葉にわたしは慰めを見出す。「ひねもす馳せめぐり、日暮れに着けば、不足はない」(『真の知恵について』、一四〇頁)。わたしもとうとう着くところに着いたわけであり、わが生涯の終わりにわが影響の始まりを見て満足を覚える。この影響が古例どおりに、始まるのがおそければおそいだけ長くつづくことを希望しながら。──(p.40)


第一節

 「世界はわたしの表象である。」──これは、生きて認識している存在のすべてについて妥当する真理である。(p.45)

──きわめて重大で、各人にとり、恐ろしいとはいわないまでも、気になるにちがいない真理である。つまりこの真理とは、ほかならぬ各人がまた「世界はわたしの意志である」と言うことができ、言わなければならないということである。(p.47)


第八節

というのは、それがあたえるのは私見ではなく、事象そのものであるからである、しかし抽象的な認識とともに、つまり理性とともに、理論の領域では疑念と誤謬が、実践の領域では心配と後悔が始まったのである。直観的な表象においては仮象が一瞬のあいだ現実をゆがめるとすれば、抽象的な表象においては誤謬が幾千年も支配し、諸国民全体のうえに鉄の軛を投げかけ、人類の最も高貴な感動を抑圧し、誤謬が欺くことのできぬ人ですら、誤謬の奴隷である欺かれた者どもの手によって鎖につながれることになる。誤謬こそ、あらゆる時代の最も賢明な精神の持主でさえ、戦って五分五分にはいかなかった敵なのであり、彼らがこの敵に勝って得たものだけが、人類の財産となったのである。(p.96)


第二十四節

 われわれは次のことを偉大なカントから学んだ。時間と空間ならびに因果性は、それらが示す法則性の全体とそれらの形式すべての可能性とのうえから、われわれの意識のうちに存しており、それらのなかで現象し、それらの内容を形成する客観からはまったく独立している。(p.229)

物自体とは何か。──意志。これがわれわれの答えであった。しかしいまのところ、これには立ち入らないことにする。
 物自体が何であれ、カントが正しく結論したところによれば、──(p.230)


第二十九節

 本節でわたしの叙述の第二の主要部分を終えるにあたり、わたしは次のような期待をいだいている。まだ一度も存在したことのなかった思想、したがってそれをはじめて生みだした個性の痕跡からまったく自由ではありえない思想をまず最初に伝える場合に──可能であるかぎりにおいて、以下のような明らかに確実なことを伝えるのに成功したのではないかということである。すなわち、われわれが生きて存在するこの世界はその全本質からいってどこまでも意志であり、同時にまたどこまでも表象であるということ、この表象は表象としてすでに形式を、つまり客観と主観を前提し、したがって相対的であること、この形式と根拠律が表現するこの形式に従属するすべての形式とを廃絶したあとにまだなにが残るかと問うなら、それは表象とはまったく異なるものとして意志以外のものではありえず、したがってこの意志こそ本来の物自体であるということである。(p.296)


 斎藤忍随他訳
 1978年6月20日第2刷発行
 白水社